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弟の思い出

弟、三谷彰が亡くなって2006年11月21日で一周忌を迎えました。
去年の9月頃から、神奈川の実家近くの作業所に通いだし、新たな知り合いも出来て、これから徐々に回復するのを願っていた矢先の訃報でした。
我が家は暮れのユリの出荷時期を間近に控え、何かと慌しくしていた頃、突然の父からの知らせに、耳を疑ったのでした。
何かの間違えであって欲しくて、思わずほほをつねってみたけれど、現実である事は紛れも無く、丁度手伝いに来てくれていた娘に留守番を頼んで翌日の飛行機に飛び乗り、実家に向かいました。 その後約3-4日、通夜や葬儀で慌しかったのですが、急な事にもかかわらず関係の約150名以上の方々に駆けつけていただきました。 
 
その時の事はあまり良く覚えていないのですが、自分より先に子供を失う悲しみに母は耐えられるのか、その事ばかりが気になっていた事が思い出されます。
ひとつだけ救われたのは弟の安らかな顔、何もかもから解き放たれて、穏かに眠っているように見えたのです。

あれから1年、残された家族、両親の深い悲しみはまだ完全には癒えていないけれど、弟の残した一人息子S君は確実に成長して、体も心も大きくなっていました。

19日(日曜日)2日早いのですが、親戚、元の職場の同期の方々、高校時代の友人約20名程に横浜にある霊園に集まっていただいて、ささやかながら無事に一周忌を行いました。その後しばし弟の昔話に花が咲きました。
その日偶然にも、三宅島で仕事を一緒にしていた方たち4人が、お墓参りに来て下さっていました。今も命日を覚えていてくださって有り難い事です。

弟の略歴と好きだった事
昭和34年、兵庫県神戸市に生まれ、その後東京で育ちました。(幼少の頃は武蔵野市、世田谷区を経て小学校入学以来高校卒業までは北区)、大学時代からは神奈川に転居。
大学時代は社会科の先生を目指して勉強とアルバイトに頑張っていました。
音楽、特にフォークソングが大好きでPPMとボブディラン、サイモン&ガーファンクル、ジョンデンバーが十八番。 中学・高校時代にもすでに友達と組んでバンドをやっていて、その後も続けていました。 絵も上手でした。手早くサッと描くのが得意で、高校時代友達の宿題を代わりに描いた事もあったそうです。 アニメの時代に育ったので、巨人の星、円谷監督のウルトラQ、ゴジラ等怪獣物が大好きというちょっと子供っぽいところもありました。 ちょっとドジなところ、何事にも不器用なところはずっと変わりませんでした。 すぐに熱くなるところもずっと変わらず。スポーツは中高時代は部活で野球やサッカーをやっていて、好きなサッカー選手は確かベッケン・バウワー、野球は阪神一筋で、TVでよく観戦して熱くなっていました。 お友達とは野球談義していた事と思います。
中学に入った頃から旅行が好きで、殆どは一人で(時には仲の良い友人と)SL写真を良く撮りに行っていた事を思い出します。

大学を卒業して少しの間は神奈川の中学校で講師をしていましたが、その後都内の私立の女子高校の先生になりました。 担任の女学生に慕われる熱血先生だったそうです。なぜか経験のない筝曲部の顧問になって生徒さんと一緒に演奏したり、PTAのお母さん達と勉強会を開いたり、かなり活動的でユニークな社会科の先生だったようです。
当時私は結婚し既に三宅島に行っていたので、弟の先生時代の事はあまりよく知らなかったのですが、昨年葬儀の後、以前の教え子の方達が実家に訪ねてくださり、色々と思い出話を聞くことができました。

東京での先生時代に結婚し、しばらく都内で生活していましたが、私達夫婦が三宅島に渡ったのを機にしばしば島に遊びに来るようになり、その後どういう心境の変化があったのか、教員を退職して夫婦で三宅島に移住、当時島で丁度募集していた福祉の仕事に就いて、その後10年以上携わりました。
待望の一男を授かり、以後仕事も熱心に取り組む一方、子煩悩なお父さんとして島で穏かな日々を送っていました。
噴火前、数年間は三宅高校で講師として福祉の授業を持ったりもしました。
三宅島での福祉の仕事も広範囲にわたり、障害者の作業所を開設したり、高齢者のホームヘルプ事業など色々な事にかかわって精力的に働きましたが、2000年夏の大噴火が、彼の人生の大転換となってしまいました。
噴火当時の事は彼が残した著書に詳しく書かれています。 噴火の事、避難生活の事など分かりやすく書かれていますので、機会がありましたら読んでみてください。

「三宅島 島民達の一年」(岩波ブックレットNo.542)
http://miyakejima.net/funka_deiryu/iwanami.html

5年に及ぶ東京での避難生活と、東京にバラバラになったお年寄りのお世話、他にも色々な仕事が膨大になり、不安な生活は徐々に彼の体・精神を蝕み、避難後しばらくして精神科を受診していましたが、後にうつ病となり入院。 その後も入退院を繰り返す事になってしまいました。 
災害時の心身のケアは大切、忘れてはいけない事と後になっても思いますし、(弟の様に)仕事などで介護する立場の人にも、心身のケアは早い段階から必要な事だと感じています。

お医者様とも相談し、2003年の秋から2005年春頃までは気分転換の為八丈島で暮らし、島の作業所に通いながら、時には家の園芸の仕事も手伝ってくれました。作業所では皆さんに慕われ、お料理作りや好きな音楽も出来るくらいにまで回復していました。 しかし、本人にはやはりあせりもあったようで自ら島の会社に面接に行き就職まで決めてしまい、かなり無理をしてしまったようです。 もっとゆっくり出来ていたらと思います。 2005年春に再度の入院、退院後は最愛の神奈川の両親の元で穏かな日々をおくっていたのですが、 本人にとってはつらい日々だった事に間違いなく、最悪の結果になってしまいました。 本当に残念、無念です。
本人の経験(病気のことも含めて)を生かし、出来る事がたくさんあっただろうと思い残念で仕方ありません。

もっと自分にも何かが出来たのではないかと、色々考え込むときりがありませんが、残された者が精一杯生きることが一番の供養なのではと最近は思えてくるのです。

弟の一周忌にあたり、何か書き残さなければとの思いで書きとめました。又落ち着いたら書き改めます。
精一杯生きた46年だったと思います。
by shimanohikari | 2006-11-24 21:54 | 家族・友人
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